2011年08月11日

祭りの準備


 スギです。

 石巻、特に牡鹿半島で感じる事ですが、それは人々の信仰の厚さです。 神社やお寺が、暮らしの中に当たり前にある風景。 どこの家にも居間の中心に神棚が置かれているし、スーパーに行ってもお盆のお供えグッズがセンターに山積みされています。

 以前に渡波(わたのは…波が渡るなんて、すごい地名ですよね)地区の神社でやった祭りの話をしたと思いますが、ボランティアの太鼓のグループが演奏していたら、地元のオジサンが「見てられねえ、そんな叩き方じゃダメだ!」と、ばちを取り上げ威勢よく叩き始めると、それに釣られて篠笛持った人が現れお囃子が太鼓に絡み出し…宮司さんも今年は出来ないと諦めていた祭りが復活して大いに盛り上がった。

 それが4月の出来事。瓦礫の撤去も勿論大切だけれど、心の瓦礫を取り除く事の大切さを改めて思います。

 今、『祭り』或いは『祭り的なるもの』が一番必要なのは福島かなと思います。 思いっきり深呼吸や溜め息つきたいよね。

20110810


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2011年07月24日

南相馬市から帰還要請

河北新報の記事です。
http://www.kahoku.co.jp/news/2011/07/20110713t61011.htm

南相馬市が「帰還要請」 市外避難2万8000人来月中に
 
南相馬市が示した帰還計画について質問する避難者たち=12日、米沢市の置賜総合文化センター
 
 
 福島県南相馬市は12日、福島第1原発事故などの影響で市外に避難している市民約2万8000人に対し、8月末までに避難所を退去して、自宅や市内の仮設住宅などに入居するよう求める文書を送付した。市は「避難所を出て自立を促すのが狙い」と説明している。
 市によると、市外にいる避難者は11日現在、福島県1万565人、宮城県2200人、山形県2007人、新潟県2548人など。送付した文書では、体育館などの公共施設などに開設された1次避難所の避難者は今月中に、宿泊施設などの2次避難所は8月末までに、それぞれ退去するよう促している。
 ただ、南相馬市は原発事故で警戒区域や緊急時避難準備区域などに分かれており、自宅に戻れないケースもある。市は8月中に約2500戸の仮設住宅を完成させ、入居希望者に入ってもらうという。
 市地域振興課は「放射性物質への警戒感が強いのは承知しており、市内に戻るのを強制しているわけではない。戻らない場合は、民間の賃貸住宅に入るなどしてほしい」と説明している。
 1次避難所閉鎖後も136人が2次避難中の山形県米沢市では12日、同市駐在の市職員による説明会が行われた。
 説明した職員によると、山形県内では9月末に2次避難先のホテルや旅館と滞在契約が切れる。滞在を延長することによって、夏から秋の観光シーズンに影響を及ぼさないよう配慮したという。


<避難者猛反発 「あまりに唐突」 米沢で説明会>

 福島第1原発事故で全国に避難している市民に向け、南相馬市が「帰還計画」を提示した。136人が2次避難する米沢市内では12日、2カ所で説明会が開かれたが、原発事故が収束しない中、避難先から退去する時期の目安だけが示された形だ。一日も早く帰郷したい気持ちとは裏腹に、避難者の多くは「あまりに唐突だし、現実的でない」と反発した。
 説明会会場の一つ、市中心部の置賜総合文化センターには、主にビジネスホテルに避難する17人が集まった。
 説明が終わると出席者が次々に発言。「放射線の値は明らかに安全なレベルでない。それを浴びに戻れと言っているのと同じだ」「仮に戻っても、仕事や生活環境を補償してくれるのか」「病院も学校も元に戻っていないのに、帰ってどうするんだ」など、計画を批判する声が上がった。
 説明会後、原発から20キロ圏内に自宅がある南相馬市小高区の元会社員斎藤祐樹さん(28)は「市内が安全だと言い切れるのか。現在進行形の原発問題が収束しない限り、不安で帰れるわけがない」と語った。
 20キロ圏内で建設会社を営む木幡竜一さん(47)は「市は早く戻ってきて復興に力を貸してほしいと言っているが、まだまだ復興に動き出せる段階ではない」と首をかしげた。
 米沢市三沢コミュニティーセンターでも説明会があり、温泉旅館などに身を寄せる11人が出席した。30キロ圏内の自宅から9日がかりで同市に避難した板金業水本サチさん(75)は「帰還後に再び原発事故が起きた場合の再避難の方法は考えているのか。あてもなく逃げるような思いは、もうごめんだ」と話した。


2011年07月13日水曜日

 
 
 
 
 
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2011年07月18日

飯舘村の酪農家 長谷川健一さんのおはなしを聞く会


追記 Oさんによる筆起こしを加えました。一部聞き取れない部分は抜けています。



 7月10日、東林間で開催した「飯舘村の酪農家 長谷川健一さんのおはなしを聞く会」。
 PCでの動画撮影です。

 とても暑い日でした。扇風機とうちわで涼をとり、麦茶、レモン水で渇きを癒します。

 暑さのため、PCも熱暴走し、最後は音声や映像が途切れてしまいました。
 1階が児童館なので、子どもたちが元気に遊ぶ声もたくさん入っています。

 ブログやツィッターで拡散してくださった方々、感謝しています。


 いくつかのブログにアップしてくださった方たちがいらっしゃいますので、リンクをしておきます。

 ジャーナリストネット公式HPhttp://journalistnetannex.blog74.fc2.com/blog-entry-535.html

 空・風・火・水・土−森羅万象−
http://ameblo.jp/muiyoga/entry-10950019226.html
 今当日の講演の筆起しをしてらっしゃるということで、期待しています。

 ブーゲンビリアのきちきち日記
http://blog.goo.ne.jp/naha_2006/e/be377cc0b396de87f7f5b911114d74ab










以下Oさんによる筆起こし・・・感謝します。



 わたしの家は、飯館村前田部落にあります。村の広さは230平方キロ、標高約450メートル。今年の冬は3回25センチぐらい雪が積もりました。夏は涼しく冬は寒い。飯館の人は、寒いのには強いが、暑いのにはめちゃくちゃ弱いです。

 きれいな村でした。皆で、がんばって、「日本一きれいな村づくり」などで賞をもらったりした。

 飯館は非常に広い村で、原発に近いところは30キロの距離、わたしの家から原発まで43キロです。

 3月11日、うちは屋根瓦が落ちた程度でした。けど停電で、牛の乳を搾るのに電気を使うので、わたしは自家発電装置を持っていて、それを酪農家仲間に貸したりしながら、3軒ぐらいしか助けられなかったが、そうやっていた。

 そのうち、どうも原発がおかしいということで。3月14日三号機が爆発しています。その音は、飯館の原発に近いほうまで聞こえたそうです。わたしは聞かなかったが。
 どうも様子がおかしい。10キロ、20キロ、避難指示とか勧告がでてるわけです。
 わたしも夜9時ごろ、対策本部のほうに行ってみました。
 「放射能、今、なんぼだ」
 担当が、長谷川さん、とんでもないことになってる、45マイクロシーベルトだ、と言うんです。
 その数値がどんな意味を持ち、どれだけ危険かわからない。
 ただ俺も、えらいことになってるということはわかる。
 これは大変だと役場を出ようとしたら、担当者が、長谷川さん、この数値は公表しないでくれと言う。なんでだ。本庁に止められている、と。なにを寝ぼけたことを言ってるんだ・・・
 で、わたしの部落には5つの組があるんです。それぞれに組長、班長がいる。すぐに連絡をした。
 集まってくれと。原発がとんでもないことになってる、と。
 翌3月15日、集会を開いた。
 皆に、申し訳ないことをしたなあ。当時、雨が降っていたんです、後で雪になった。
 皆、知らないんです。皆、びしょびしょに濡れながら集まってくれたんですよ。

 後で聞いたんですが、ここにおられるフリージャーナリストの森住さん、たまたま3月15日、隣の伊達市に取材に入っていて、45から50マイクロシーベルトだったと、これはとんでもないことになってると、飯館に入ってこられた。飯館は山のてっぺんだから、どこから入っても上り道、それを上がってこられた。たまたま部落の集会所の隣に消防署の屯所があるのだけど、そこに泊まって、線量計で計ったら100超えたこともあったと。とんでもないことだ、避難しないと。だけど彼らにはどうすることもできない。

 そこに民家があるんです、そこで民家にでかけて、放射能がえらいことになってるから、すぐに避難したほうがいいと言った。その家の人、キョト〜ンとしてたそうです。そりゃそうですよ。知らない男が2人突然来て、放射能が危ないから避難しろと言われても、キョト〜ンとね。そんな状況でした。

 飯館は、30キロの外だけど、風向きによってはもろ、受けるんですよ。原発を中心に同心円を描くんじゃないだろ、と。風向きによっては、危険な範囲が細長く伸びたりする。おかしいじゃないか、と。
 メディアの人たちがたくさん来ていたので、その人たちに言い続けたのは、なんで20キロなんだ、なんで30キロなんだ、こんなのおかしいべ、20キロはしかたないと思う。30キロなんていらね、と線量の高いところが入らないのはおかしいだろ、と、これを新聞に載せてくれ、と言いました。テレビでやってくれ、と言いました。
 いっさい、載らなかった。
 こういうことを俺は言いたいんだ、どう思うか、と聞くと。もっともだ、と言う。だったら、テレビに乗せてくれ、と一生懸命説明して、放送してくれ、約束だぞ。だけど、カットになってる。放映されなかった。

 最終的には、わたしの予測したとおり計画的避難区域になったんです。4月11日に。それまでに皆放射能を、じゅうぶん、浴びてるんです・・

 その前、3月16日、家族を避難させました。こりゃだめだ。子どもをおいておくところじゃない、と。
 わたしのおやじ、おふくろ、息子と嫁と孫、わたしのむすめのところは、娘は役場の職員だから、孫2人とだんな。
 車2台で、千葉県佐倉市に避難しました。


 3月20日、住民が避難します。栃木県鹿沼市の体育館に避難しました。希望者だけで、鹿沼市を選んだのは、わたしの部落250人中35名。あとは自主避難なんです、親戚とか身内のところに身を寄せるわけです。なんで強制にしなかったかなあ・・・
 親戚とか身内でも、5日ももすれば、お互いに気まずくなっていられくなる。案の定、1週間後にゾロゾロ戻ってきました。
 戻ってくれば放射能。でも、放射能は見えないし匂いもない。わたしだって、わたしは完全に被爆してます。福島の子ども10人が、尿検査でセシウムがでた、と。飯館村に住んでた我々、出ないわけないな。
 夜であれば、放射能で、からだキラキラ光ってるか・・・

 で、計画的避難区域に国から設定されました。設定しますよと言われたのが4月11日です。

 その前の10日に、大学の偉い先生が来て、中学の体育館に村の人を集めて「安全なんですよ、安心ですよ、心配する必要はありませんよ」と話した、その翌日に、計画的に避難しろ、と。1ヶ月を目途に避難しろと。
 こんな人を馬鹿にした話があるか。わたしも怒った。

 計画的避難になる前に、わたしは飯館の酪農家の代表ですから、酪農家に「牛、どうしてるか」「大丈夫か」と声をかけていたが、わざと言っていた。「もしかしたらだめだから、覚悟だけはしとけ」とも。
 そんななかで、線量の高い地区に酪農家がある、そこを歩いて線量を計ってみると、U字溝とか雨どいとか、1ミリシーベルト、とんでもない数字だが、皆わかんない。しょっぱくもないし、甘くももないし。子どもが外で遊んでる、洗濯物が外に干してある。放射線量が高いぞ、危ないぞと行政でも言わない。
 わたしは役場に行った。村長はいなかったが、次長たちがお茶のみしてる。もともと村長も次長も酪農家あがりで、俺は友だちだから、づけづけ言った。
 「お茶のみしてる余裕なんかあるか、なんで子どもたちを避難させないんだ、今、避難させなければ取り返しのつかないことになるんじゃないのか、20年経って、今の子どもたちが結婚して、赤ん坊を産んだときに、なにか起こったら、おまえら責任とれんのか。とれるわけないだろ、もう世の中にいないんだから。そういうリスクを少しでも下げられるのが、お前たちだろ」
 そしたら「だって長谷川さん、大学の偉い先生が何回も来て、安全だ安心だなにも心配することないと言って歩いてるんだぞ、原子力保安員の人も来て、同じこと言ってるんだぞ。これよりなにすることがあるか」と言う。
 「保安員が来るってことは、危ないから、危険だから来てるんだぜ。安全、安心なら誰もこないだろが」

 村長、次長たちは村にしがみついてる。村を残せと。せっかく誘致した企業を残せと。
 子どもをおきざりにしてる。俺は、子どものことを考えろと。
 飯館の子どもたちは、2ヵ月半もの間、放射能を浴び続けた。内部被爆もおそらくしているだろう。これからは、低線量被爆っていうのもあるんだそうです。


 牛乳は3月12日から6月6日まで、捨て続けました、毎日、同じ作業を繰り返しました。

 牛に与える餌の牧草ですが、国の基準値は300ベクレル。事故当時の飯館の表層は22000ベクレル。どう考えたって、22000ベクレルの土から300ベクレル以下の草は生えない。

 そういうことを踏まえて、4月30日に酪農家が集まった。どうするか。出口がない。八方塞の状態です。牛乳は出荷できない。牛は、計画避難地区の枠から出してはだめ。動かせない。牛は、でっかいペットですよ。餌はやらないといけない。その餌代は、牛乳を売って作るんだが、牛乳は捨てている。てことは俺のふところからだすんだが、俺のふところだって、あるわけないんだから。
 で、最終的結論としたのは、先ほど言った、牧草の放射能です。これが大きな要因なんです。計画避難の枠の中では、牛は飼っちゃだめだと。やめるしかないんじゃないか。一人ひとりに思いを聞いて皆、泣きながら、牛飼いはもうだめだ、と。それで決まった。

 その日に、東電の副社長が飯館村に来た。わたしも行きました。1300人の村の人が集まりました。黙っておられん。我々は4時間前に、涙ながらにこういう決断をしたんだ、あんたがたにわかるかと、大きい声を出した。頭にきたから。

 我々がそういう決断をした、にもかかわらず、行政、国や県はそういう指導はいっさいなかった。我々農家、酪農家が、みずから決断しなければならなかった。

 子牛は動かしてもいいということになり、県内の白川の育成牧場に一時避難をさせました。組合のトラックで運びました。親牛は、そうはいきません。とちくじょうに運ばれるんです。それぞれに皆思いがあるのですが、とにかく、腹に子どものはいっていない牛、年老いた牛から、処分しろと申し上げました。そういうおなかに入っていない牛、年老いた牛だって、我々に対して十分に働いてくれた牛、十分に仕事をしてくれた牛なんです、これからも十分に働いてくれる牛。それをこうやってとちくじょうに送らなければならない現実になったわけです。

 わたしのところも、第一弾として12頭の牛が行きました。自然と涙が流れるんですよね。皆なんともない牛なんですから。それぞれ思いがある牛です。いままでだって、仕事を終えた牛を、屠畜場に送ったことはあります。でも、まったく状況が違います。
 トラックで屠畜場に行きます。わたしも代表として、全部たちあいました。みていられない、なにしてもいられないです。こんな惨いことが世の中にあるのかという、そういう思いなんです。突然ふってわいた放射能によって・・・

 酪農家のご婦人がトラックに乗せた牛に向かって、ごめんねごめんねと叫びながら見送っていたのをはっきり覚えています。

 わたしのところも牛がすべていなくなり、牛舎はからっぽになりました。正直言って、肩の荷がおりた実感もあります。というのは、線量の高いところに酪農家がいます。牛を早く処分して、避難させなければいけないという気持ちがありましたから。

 その頃から、南相馬市の20キロ圏内のなかの映像が、テレビでも若干流れたと思いますが、牛が餓死してるんです。それみたときに、これはもうだめだ、俺はこれ以上牛は絶対殺さん、と。屠畜場に送ったのは、年取った牛とか、おなかに入っていない牛でしたが、そうじゃない牛たちが餓死している。これはだめだ。
 それで、酪農組合に行って、わたしは組合の理事をしてますが、俺はこれ以上牛は殺さない、どうすべと。相談して、飯館の酪農家が出せる牛乳、まだその頃、乳は搾ってます。搾っては捨て、搾っては捨て、していました。
 そのサンプリングをやろうと、3回やってでなかったら、厚労とか農水にぶつけようと、組合は渋ってたけど、やるべえとやったんです。で、1回目はヨウ素は検出されなかった。セシウムが6・5ベクレル検出された。牛乳のセシウムの基準値は200ベクレル。少ないといっても出ているのは間違いない。
 2回目やりました。5ベクレル、下がってきた。3回目、下がるの間違いないが、ただ今までの牛乳の出荷制限解除のなりゆきをみると、3回めは、4日から5日おかないと

 その頃には。ジャーナリストとだいぶ知り合いになりました。俺、国会に行くから、

 で、5月20日、参議院議員会館地下、勉強会と称して国会議員超党派で集まってもらった。今までの経過を話した、牛乳のサンプリングやった、3回目出なかったら移動制限解除をただちにしてくれと。
 このとき、おれが一番がっかりしたのは、福島県選出の国会議員、ひとりも来なかった。なにやってんだ。がっかりしたって・・・
 がっかりしてたんですが、5月25日に3回目の結果が出た。なにも検出されませんでした。よかったよかったと喜び合いました。と。同時に牛を計画的避難の枠の外に出してもいいということになり、外の酪農家に引き取られていきました。屠畜場に送るのとはわけが違うんですから、皆、喜んで送り出しました。

 そんななかで、飯館村の隣、相馬市の酪農家、わたしの友だちだった酪農家が55歳でみずからの命をたちました。「原発さえなければ」と。ああ、つらかったべな、と思います。彼の思いが記されています。「わたしの限度を超しました」2011年6月10日。見つかったのは11日です。「原発さえなければと思います。残った酪農家は原発に負けずにがんばってください」「仕事をする気力をなくしました」。こういうメッセージを残して彼は旅たったわけです。非常に残念です。
 その前、計画的避難指示がなされた後、102歳の老人がみずからの命を絶っております。なんでか。「避難しなきゃなんないんだべ。足手まといになるから」。こういうことです。それと10日ぐらい前に、隣の川俣町山木屋地区の58歳の女性がみずからの命を、絶ちました、本当に残念です。

 そんななかで我々は今、「全村見守り隊」というのを結成しまして、村民350名が出まして毎日24時間体制で、自分たちの村、自分たちの部落は、自分たちで守ろうということで、皆それぞれの思いがありますので、がんばってます。
 そしていよいよ6月29日、白川の育成牧場に預けておいた牛のセリが行われました。これで、わたしたち酪農家の牛は、すべていなくなったわけです。

 わたしの部落も約9割近くの人が避難しています。寂しいですよ。一番寂しいのは、夜の8時から9時ごろですね。いつもなら部落内に、電気がついてますよね。それがついていない、真っ暗闇。それは異様です。

 皆で、草刈してます。汗だらけになって、最初は、マスクしてるんですが、暑いし苦しいし、しまいには・・・きれいになりました。

 田んぼも畑も雑草だらけです。一面の田んぼが、どんどん草で覆われていく。そんな光景になりました。

 今月いっぱいで飯館村の避難は完了するだろう。村で1軒のスーパーマーケットも個人営業の店も、すべて閉めてしまいました。ガソリンスタンドも郵便局もありません。ポストに、当分の間閉鎖させていただきますの貼紙。作業していて暑いから何か飲もうにも、自動販売機もない。路線バスも運行中止です。すべてがなくなってしまった、すべてのものが。ただライフラインは残っています。

 わたしの部落は54戸、205名の人がいます。皆が仮設住宅に行けたらいいと思い、いろいろ段取りをしましたが、うまくいきませんでした。というのは、学校に通う子どもたちは、そういう部分に集めようと、まあこれどうしようもないんですけどね・・スクールバスが迎えにくるんですから、スクールバス福島県いったいあるくわけにいかないですから、子どものいる世帯は集まらない。
 あとはアパートや一軒家を借りた人もかなりいる、そういう人も抜けていく、なんとかならないかと。最終的に18件ほどの家族が1箇所の仮設にはいることができました。これだけ集まったんだからよし、ということで福島市の北、伊達東の仮設住宅に入るように決めました。行政にも電話して、前田部落は仮設は伊達東だぞ、と。ここは学校のグラウンドだったところで、建物は木造です。木造で、病院が近いところにある、あとはスーパーも近くにある。自宅に帰るのも車で40分かそこらで帰ってこられる。

 4日5日前の、わたしの家の雨どいの下の線量です。27・62マイクロシーベルト、惚れ惚れします。なんでこんなことになちゃったんだろう・・・・


 スライドはこれで終わりますが、わたしの思いを聞いていただきたいと思います。

 先日、役場の機能は福島市に移転されました。移転のときに村長が、2年を目途に戻ってきたいと言いました。戻ってくる、と。我々にしてみれば、それはどこに根拠があるのか。データもなければ、なにもない。思いつきだけで、言ったんではだめだ。現実をきちっと見つめないと前に進めないんじゃないか。というのは我々が常々考えてきたことは、飯館村全村移住ということを考えの中に含めてもらわなきゃなんないんだろうな、と思ってます。

 農水大臣とかきて、ひまわりの種とか植えました。除染のために。チェルノブイリでもやったそうです。テレビで放映してた。じゃあ除染効果はいくらぐらいだったのか。数%です。やらないよりやったほうがいいのか・・と。わたしは、ひまわりだなたねだと、そういうものはひとつのパフォーマンスだと思っています。

 山の除染、これをどうするのと言ってます。飯館は75%が山なんです。まずは山の除染をしなければ、戻ってきた人は、目に見えないけどセシウムが舞っている、そういうところに戻ってくるんです。先ほどの移住の話、ひょっとしたら・・・我々も戻りたいです。自分の生まれ育ったふるさとに戻ってきたい。だからもし村長が、十分安全ですよと言ったら、俺は戻ってくるかもしれない。でもわたしは、孫や子どもは戻らせない。それは今から決めています。ゼロにはなんない。3日前にうちのところで、5・8だった。それがたとえ半分になったとしたって、2・7ぐらいの数値がでるわけです。子どもを作ったり子どもを育てたり、そんな環境じゃないですよ。
 わたしはこどもたちを戻らせない。ということは、我々だけが村に戻ったとしても、今まで同じ屋根の下で暮らしていた家族がバラバラになって、そのままわたしは、飯館村で一生を終えるのか、それとも村の外に出て、牛を育てて、一つ屋根の下で家族で暮らしたほうがいいのか、何年か後にはその選択をしなければならないんだろう。

 村でも、除染して帰ってくる方法。あとは、集団で移住する方法。今からきちっとシュミレーションを建てておかないとだめだと思う。菜の花畑ずっとやって、2年過ぎた。やっぱりだめだった。ちっとも線量が下がってない。避難の段取りすべ、それでは遅いだろ。それが行政の怠慢ではないんだろうが、すべて後手後手にまわる。

 最後になりますけど、わたしも全村見守り隊でやってます。線量の高い地区の区長さんがきて、ぼそっと言うんですよね。しんみりした顔して「おれんとこの女子高校生、言うんだぞ。わたしは結婚なんてできないんだ、もし、もしかして、誰かいい人できて結婚できたとしても、子どもは産めない、だってどんな子が生まれてくるかわかんない。こう言うんだ、今の女子高校生。長谷川さん、どう考えるよ」。わたしも答えはでませんでした。

 後手後手にまわる政策、情報開示のなさ、そういうものによって我々、飯館村の避難が遅れた、と。それが現実なんです。その皺寄せが我々にかかってくるんですよね。

 わたしが今言いたいのは、福島原発の事故が収束もしないのに、佐賀の原発再稼動だと。我々からすれば、おいおい、なに考えてんだ、こっちであれだけのとんでもない事故で大騒ぎしているのに、国会でガチャガチャガチャガチャやって、その後、再稼動、なに考えてんだ。
 20キロ圏内で酪農家の牛たちが餓死している、その牛を豚が食べています、そんな惨いことが、実際、この日本国内で起きているんです。

 このことを風化させないでいただきたい。



 7月16日に東林間公民館で行われたチェルノブイリへのかけはし代表・野呂美加さんの講演会、残念ながら仕事を抜けられず、聞けませんでした。
 多くの人たちに野呂さんのお話を聞いていただきたいと、こちらはハイビジョンで撮影してあります。
 後日上映会を開催予定です。
 日程が決まり次第お知らせします。


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2011年07月05日

第5便の動画 飯舘にて


 6月29日 飯舘村での放射線量の動画です。  ガイガーカウンターはTERRA-P MKS05。







 第5便は6月29日未明出発。野菜の到着がずれてしまい、座間の運送会社のセンターで積込みました。

 行き先は南相馬のデイさぽーとぴーなっつ。石巻、黄綱。

 詳細はレポート待ちです。


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2011年06月30日

20110626 寿DVD発売記念&被災地支援コンサート


 新横浜スペース・オルタで開かれた表題のコンサート。
 行けなかった人も、雰囲気はつかめるかなあ。
 簡単にまとめた動画です。


スギです。
 26日のスペースオルタでの被災地支援コンサート、皆さまの力でとても良い集まりに成りました。
 皆さん、それぞれにいろいろな事情を抱えながら集って頂いたこと、改めて感謝です!
至らぬ点は、多々あったと思います。ゴメンなさい。

 でも、寿の歌、やっぱり良いよなぁ。
 関さんの話も良かったです。特にコンサート終了後の話。(歌もびっくり?する位良かったですよ!)
 そうなんです。コンサート終了後はセカンドステージ?に突入。
 ハルさん・トシさん、春恵さんはじめ次々と素敵な歌、セッション。奈良からは八百屋「ろ」のヒデさんの詩の朗読。久々に会う懐かしい顔、顔。その娘や息子達、新しい世代の人達に希望を感じ…。

 関さんが「ここで話していたら、今、自分が泣きたいんだなって事がわかりました。」
 3ヵ月走り回って来て、沢山の葛藤やドラマがあり、その度に思い、悩んで…。
 涙がこぼれてもいいですよね。前を向いて歩いているのだから。

 真起さん、収益のカンパ、有効に使わせて頂きます。
 氏さん、末松さんカンパ多謝!(今回は氏さんと石巻まで行きます)

 寿のナビィ、ヨシミツにぃにぃ、お預かりしたカンパは石巻の「はからめ」の二人に渡して来ます。
 本当に、たくさん、たくさんありがとうです!








震災チャリティーライブに集ってくれた皆さんへ
 見通しもない胸塞ぐ日々の中で、「ヨウ!」と声をかけ合うのは、ここに自分は「イキテイルゾ!」と確認しているようなものなのだね。
 こねこさんそっくりの娘さんを連れたcanが早々とオルタのエントランスに、何百枚もの脱現ポスターを貼ってくれました。
 ハーベストムーンの時には八百屋仲間を中心とした出店で賑わっていた場所に、今回は脱原発のポスターが、大漁旗のようにはためきました。
 そのポスターに囲まれるようにして、奈良から来てくれた八百屋「ろ」のヒデさんがエントランスの地べたに座り込んで、風の中、気持ち良さそうに外を眺めていました。
オルタに初めて来てくれた山尾三省さんが、そうしたように・・

 その姿を見た時から、僕の中でコンサートが鳴り始めていました。

 振り返ると、関さんの胸の内をどこまで受けとめられたかは定かではないのですが、伝え合うことの本質が、普段よりも深く垣間見えたことは確かだったよう
に思います。

 関さん初め、とにかく来てくれ、ここまで生きていてくれた皆に感謝です! 
 そして、来たくてもこれなかった皆にも感謝です!

 ところで杉さんは、デートを控えた娘さんを送って帰ったcan不在にも拘らず(!?)、今年秋口の福島原発震災チャリティーのハーベストムーンをやる! と、言ってしまいました。氏さんが水を向けたんだっけね。さて、どうなるか・・・?

 意志を持った時間の入り口へそれぞれのエネルギーが注がれ、エネルギーが交感され増幅され、また新しい時間への意志が創り出される。
 単なる消費型ではない、循環型のイベントの素晴らしさはまさにそこにあります。
 秋口までに、この国の姿の中で、僕らの活動がどのような現実を産み出しうるのか?
そのことを含みながらハーベストムーンに臨めたらと思います。

 ということで、刈り取り分かち合うための「稔り」をそれまでに育て合えればと思います。
 今回来てくれた皆さんへ伝えられたことで、HANETも一回り大きなネットワークになるような気もします。それも期待しましょう。

皆様、ご苦労様でした!
                                     スペース・オルタ 佐藤真起



杉さん、まおきさん、

素敵なコンサートを企画してくださって、どうもありがとう!
久々にみんなに会えてうれしかった。
関さんとも18年ぶりぐらい?
でも、会ったら、すぐに長い年月を飛び越えられた。
また、新たな出会いもあって、それもうれしかった。

なんとオルタで歌ったのは、19年ぶり!?
ハルとの結婚ライブ以来でした。練習不足ですみません。
でも、歌ったら気持ちよかった〜!

3月11日以降、胸に重いふたがされたような感じで
過ごしてきたけれど、人とつながる、表現することで、
ふたが取れてきたような気がする。
みんなとつながって、原発を止めるぞ〜!という力が
湧いてきた。みんな、ありがとう!
                                                    トシ



posted by 勇気野菜 at 07:55| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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