20110910 土
こんばんは、スギです。今、石巻です。
今日は、午前中和歌山に行く救援車両に荷物の積み込み。(因みに先遣隊が串本町に支援ベースを無償で借り受け、立ち上げ準備中です。串本町は明治時代、座礁したトルコの軍艦の船員を救助した精神を受け継いでいるそうです)
午後からパタゴニアのボランティアの方達と再開を目指す水産加工場の手伝い。以前にも来ている所で、家族の方達とも嬉しい再会でした。(2重の借金を背負っての再スタートなので成功を願って止みません。)
Oさんへ。
S.O.さんから野菜、たくさん頂きました。ピーナッツに置いて来ましたが、石巻にも少し賄い用に持って来たところ、このカボチャ、めちゃ美味しい!と大好評でした。
S.o.さんに宜しくお伝え下さい。
20110911 日
9月8日〜11日の各地の空間線量です。
二本松、0.75マイクロシートベルト/時船引(田村市)・0.17、浪江・25.6(地際82.2)、飯舘11.2 南相馬・0.15、相馬0.25、丸森0.22、石巻・0.07、金華山0.21でした。
今、東北道に入ったところです。
今日は金華山から牡鹿半島に戻る船上で、午後2時46分を迎え黙祷しました。
東京のデモの方はどうだったですか?
包囲は出来たのでしょうか?
20110920 火
スギです。
第7便(通算10回目)の報告です。
出発が遅れ、1時過ぎに相模原を出て二本松には6時半に到着。出勤、通学前の関さん家にお邪魔して近況報告、情報交換する。
福島では来春まで、復興対策雇用助成があるので、子供達の山村留学(放射能避難)を事業化して行きたいとの事。
詳しくはご家族の近況も含め、関さんからまた報告があるかと思います。
慌ただしく関さんと別れ、再び高速に乗り、磐越道を三春・船引で降り、S.O.さんの所へ。
関です。
スギさん、皆さんいつもありがとうございます。スギさんはいつも被災地に向かう日は、夜中に出発して朝早くに二本松に寄ってくれます。私が出勤するまでの短い間に情報交換をしていますが、頭が下がります。9月23日には8月の佐渡キャンプの報告会と夜は震災と原発事故への鎮魂を込めた小さなコンサートを里山がっこうでやります。皆さんもその内に福島に来てください。
話は変わりますが、19日は休みなので東京の集会とデモに行きます。福島のメンバーと参加することになりますが皆さんと会えるのを楽しみにしています。
20110921 水
南相馬〜石巻報告A
S.O.さんがポツリと言った言葉…。
「やっぱり牛たち置いて、自分達だけ逃げるなんて出来ないないよね。」
南相馬に行く前に田村市・船引のS.O.さんの所に寄った。
前日FAXしてもらった丁寧な地図を頼りに初めて伺った。
空間線量は0.17マイクロシートベルト/時。
郡山(約1マイクロシートベルト)からこちらまで来ると、随分下がって来る。
役場の発表が0.19マイクロシートベルト。
目の前に広がるのは長閑な田園風景。
南相馬のピーナッツに持って行く野菜(直売所などでは売れない規格外のナス、カボチャ、玉ねぎ等)を沢山用意して頂いた。心から感謝。
おばあちゃん(O.さん、S.O.さんの母上さま)がお茶とお菓子やトウモロコシを出して下さった。
トウモロコシ美味かった。
S.O.さんと少し話する。郡山のお客さんが減ったこと。S.O.さんの野菜なら放射能気にしないで買うと言ってくれた人の事。
関さんの話にあったように福島の中にある対立や葛藤の渦…。
そして、その渦を取り巻く無知と無関心。或いは、そういうフリを装う人々。
危険なのに何故逃げないのか?という声。その通り。正しい。
でもね…正しさだけで生きて行ければ、どんなに良いだろう。
家族、仕事、コミュニティー、未来、残された人生…自分の生きて行く場所を何処に定めるのか?
秤に架けても簡単に答は得られない。それまで今を一生懸命に生きる。
そんな人達に出会うと心は波立ち、渦を巻く。金も力も無い俺はどうすれば良い?と、オロオロしてしまう。
2011/9/26 月
南相馬〜石巻報告B
船引のS.O.さんに野菜を頂き、再び国道を北上。浪江に近づくにつれ放射線量は上がり始める。
下津島から赤字木に入ると車内の空間線量は10マイクロシートベルト/時を超えて25マイクロに達する。
エアコンを使いたくないので密閉した車内で汗だくになる。飯舘村・長泥地区に入り漸く10マイクロを切る(但し役場の測定では15マイクロ)。
長泥を更に北上して役場(2.8マイクロ)を通り12号線に入る。畑は雑草に埋もれ、訪れる度に荒れていく。
切ない。
飯舘から南相馬の平地に下りるに従い、みるみる線量も下がっていく。(0.5マイクロ)
昼頃、ピーナッツに到着。
チャンプールで積み込んだ野菜とS.O.さんの野菜を降ろし、施設長の郡さんに話を聞く。
最近のピーナッツは利用者(障碍者)が更に増え対応に苦慮しているとの事。
同居していた就労支援施設ビーンズの方は鹿島地区に引っ越し先が決まり、スペースに余裕が出来るので職員も増やしていく予定。
但し、ピーナッツは頑張っているけれど原町区全体から見ると依然としてお寒い状況が続いている。以前にも報告したように社会的インフラが圧倒的に足りない。緊急時避難準備区域の指定解除の判断が妥当か否かは微妙だが、少なくともこれでは戻るに戻れない。
10月から学校も再開予定だそうだが、除染は始まったばかりで私立校は自前でやらなければならない。ましてや、住宅地の除染は多少の補助が出るにせよ『素人』住民が手弁当でやることが前提となっている。
郡さんも町内会の除染説明会に出たそうだがチンプンカンプンだったそうだ。
何ともお寒い状況なのだ。
委託事業としての仮設住宅支援は、よくよく話を聞くと民生委員的性格のもので、雇用対策的側面も強い。まぁ無いよりましだが、20ヶ所以上の仮設を1人で受け持つ事にどれほどの事が期待出来るのか?
最近、冗談混じりに「南相馬は福祉の街だねぇ」という会話が交わされるという。
年寄りや障碍者ばかりの街という事だそうだ。
いっそのこと、本当に福祉の街にして復興と雇用を創出した方が良いのではと思ってしまう。(実際、秋田の過疎地にそういう町がある)
この報告を記している今日は震災から200日。
季節はいつの間にか秋になろうとしている。
つづく
20111008 土
南相馬〜石巻報告C
以前にも書いた石巻の佐藤さんの水産加工場(佐勇水産)が10月から再開した!
1日の東京新聞の夕刊にも写真入りで紹介されていたけれど、心からおめでとうを言います。
炊き出しをしていた湊中学の近く、津波で家も工場も流された。
再開か、諦めるか3ヶ月悩んだそうだ。諦めれば借金だけが残り、再建するには新たな借金を重ねる事になる。
3人の子供のうち2人はまだ学齢期。
再開した加工場は他に1軒だけ。
果たしてやって行けるのか?
悩んで当然の事と思う。
9月に手伝いに行った時は下の娘さんは2学期から学校に行っていなかった。朝になるとお腹が痛くなってしまう。家では明るく一緒に手伝いもしていたけれど。
まだ15歳。
多分、家の厳しい状況解っているのだと思う。それを引きずったままの自分では、友達に会えないのかなと勝手に想像する。
福島、宮城で様々な出会いや再会があります。
そこで、厳しく多くの困難の中で、一生懸命前を向こうと努力する姿に胸打たれてしまいます。
遠くに在って、せめて気持ちだけでも近くに在りたいと思うのです。
だから、「こんなに汚染されているのに何故逃げないのか?」とかの意見を聞くと、「いやいや一寸待ってくれ」と言いたくなってしまう。
2011/10/10
杉浦さん、Oです。
私も9月26日、日帰りでしたが南相馬の「ほっと悠」という作業所に行ってきました。
今働いている精神障害者の作業所では、震災の後、利用者の人たちから「被災した精神障害者に義援金を送りたい」という意見が出て、バザーなどの収益金を2回ほど別々のところに送ってきました。
10月22日に作業所のバザーがあるので、今度の収益金はお互い顔の見える所にと、「ぴーなっつ」の郡さんに精神障害の人の多い「ほっと悠」を紹介してもらい、事前に利用者のSさんと2人で行ってきました。
原町区でレストランやカフェ、仕出し弁当など幅広く事業展開して、スタッフ30人、利用者も60人だったのが、津波と原発事故でちりぢりに避難して、現在は利用者30人、スタッフ数人でやっているとのことでした。
以前はそれぞれ別の場所でやっていた事業のうち、仕出し弁当と就労支援、廃品回収を、一つの建物でやっていて手狭なうえ、知的、身体、精神の三障害一緒なので対応が難しいと言っていました。
作業所の仲間に現地の声を届けたいと、利用者やスタッフの皆さんにメッセージを書いてもらいましたが、その中に「原発止めてほしい。3月11日前に戻してほしい」というのがあり、胸が詰まりました。
事故が収束したわけじゃないので、またいつ爆発するかわからない不安に怯えながら生活していると、今も緊迫感の中にいることも話されました。
一緒に行ったSさんは、スタッフがいっぱいいっぱいでやっているのが感じられ、自分が精神の病気になった時とダブって見えて、倒れてしまわないかと心配していました。
私はスタッフを物理的に支えるだけではなく、精神的な相談に乗れる人が必要ではないかと思いました。
以前は「ほっと悠」のスタッフで現在は東京に避難していて、月2回ほどボランティアで来ているという方が、津波の被害を受けた海の方を案内してくれました。
津波の跡は夏草が茫々と茂っていてまるで広大な原野のようでしたが、そこにはいくつもの集落があったということでした。あっという間に人の生活の気配が失われてしまったことに驚かされました。
南相馬に野菜を運ぶ時同乗させてもらい、現地に行って見聞きすることの大切さを、杉浦さんから学んだ気がします。
あれがあったから、今回「ほっと悠」とつながることができました。
「遠くに在って、せめて気持ちだけでも近くに在りたい」と書いていましたが、被災地で生きていかなければならない人と遠くにいる私たちとの気持ちの溝を埋めるためにも、直接話を聞くことの大切さを思います。
日々、仕事などであわただしくしている身には、被災地の大変さを知っても何もできなくて無力だなあと感じてしまいますが。